50代で始めたい、仏教のプチ戒律生活

終活の知恵
スポンサーリンク
スポンサーリンク

仏教の戒律とはブッタに至る道

さて、仏教のそもそものはじまりは、ブッダの教えです。万物はひとつであり、すべて尊きもの。ということです。

例えば、こんな会話ってありそうですよね。

山田さん:今度、追試受けることになってがっかりだよ。落ち込んじゃうよ〜

田中くん:そんな、追試くらいで落ち込むなよ、気にしない、気にしない!

山田さん:そ、それもそうだね・・・。 

田中くんは山田さんを全否定しちゃってますね。山田さんが落ち込んでいるのを、気にしない、気にしない! と励ましてはいるのですが、実はここに大きな問題があるのです。

人はすべからく、何一つ欠けた存在ではなく、すでに完全なるものです。一人の人には、喜怒哀楽、知識、感情、経験など、すべてひっくるめて、その人なのです。怒りっぽい人の怒りっぽいところを否定すると、結局、その人を否定するのと同じことです。

山田さんの落ち込んでいるのも愛すべき山田さんとして認めるのが仏教的世界観です。

例えば、こう答えるのです。

「追試を受けて落ち込んじゃうんだね。嫌なことで落ち込むのは誰しもあるし、追試で落ち込んでも山田さんは、山田さんのままさ。落ち込んで、何もする気がおこらないならする必要はないし、少しでも頑張らなきゃって、どっかで思うのなら、思う通りにすればいいだけだよ」

山田さんを稀有の存在として認め、山田さんの心の感じるままにやるとよいというアドバイスをしています。

つまり、仏教でいう、戒律を守り悟りを開くと、どんな状況になっても、どんな人に対しても、あるいは虫とか牛とか、木々など、あらゆるものに対して、完全無欠であるという対応ができるようになるのです。

戒律とは「戒」「律」でなりたっている

さて、戒律を守り、悟りを開くことで世界の常識に気がつくといいことがあるのでしょうか。暮らしの中でいいことは特にあるということではなさそうです。というのも戒律は、一般的な人の暮らしではかなり厳しいものだからです。

そもそも戒律は「戒」 と「律」のふたつの意味から成り立ちます。戒とは、ブッタになるため、つまり世界の常識に気がつくために行うことです。悟りを開くということです。悟りを開くための方法論は、すでに確立されているのですね。悟りを開きたい方は是非ともチャレンジしてください。ただ、ここに記す「戒」とは、かなり大雑把なものなので、実際にすべきことは、お近くのお寺などへお問い合わせください。

「律」とは、律するという言葉あるように集団になった場合に守るべきことです。出家という言葉を聞いたことがあるでしょう。家を出て、僧侶として集団で修行をする人を指す言葉です。僧侶は概ね集団で修行をしますので、出家した人たちが、その中で守るべきことがあります。それを律と呼んでいます。

自分から進んで守るべきことを戒といい、他者のためにおこなうことを律というのです。戒律とは仏教から出た言葉ですが、いまでは他の宗教など、いろんなところで、全般的なルールとして定められていますね。

あなたにできるか?五戒、八斎戒

さあ、なぜ亡くなった方に戒名を授けるのでしょう。戒律の話から戒名の話になりましたが、その意味を考えて見ましょう。戒律は守るべきものですが、実は、現代社会では、結構大変です。 在家信者の方、僧侶でない方でも五戒と守らねばなりません。

五戒とは

 ウィキペディア(Wikipedia)で以下のように説明されています。

  • 不殺生戒(ふせっしょうかい, : prāṇātipātāt prativirataḥ) – 生き物を故意に殺してはならない。
  • 不偸盗戒(ふちゅうとうかい, : adattādānāt prativirataḥ) – 他人のものを盗んではいけない。
  • 不邪婬戒(ふじゃいんかい, : kāma-mithyācārāt prativirataḥ) – 不道徳な性行為を行ってはならない。
  • 不妄語戒(ふもうごかい, : mṛṣāvādāt prativirataḥ) – をついてはいけない。
  • 不飲酒戒(ふおんじゅかい, : surāmaireya-madyapramāda-sthānāt prativirataḥ) – 類を飲んではならない。

嘘をつかないとか、盗んではいけない、不道徳な性行為を行なってはいけない、お酒を飲んではいけないとかは、なんどなくできそうですが、生き物を故意に殺してはいけないというのは、実のところ、肉魚などを食べてはいけないという意味でもあるのです。

で、戒名なんですが、戒名は本来、生きている間に授かるものです。でも、どうでしょうか。生きている間に、五戒は守ることができるのでしょうか。正直のところ、難しいのではないでしょうか。正論で考えるとですが。しかし、死んでしまうと、五戒を守ることは可能です。だから多くの方は亡くなった後に戒名を授かることになるのです。なくなると悟りを開くも何もありませんが、生きている間に、教えを心にとめておくだけでもいいのかもしれません。

八斎戒とは

八斎戒とは、同じ在家の方の決まり事で、上の五戒に次の三つを足したものです。ウィキペディア(Wikipedia)で以下のように説明されています。

  1. 正午以降は食事をしない。(不得過日中食戒)
  2. 歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない。(不得歌舞作楽塗身香油戒)
  3. 地面に敷いた臥具だけを用い、贅沢な寝具や座具でくつろがない。

 質素というのか、五戒が守れる人ならできそうですね。しかし、いずれにして、在家でこれを守るのは、かなり難しい。日本人はあまり知らないかもしれませんが、日本の仏教徒は戒律を軽視していると、仏教界では指摘されているのだそう。難しいのであれば、仏教は広まらないはずなのに、なぜ、世界的に広まったのでしょうか。その話は長くなるので別の機会にします。日本では、大乗という考えが要といえば要です。

個人主義でがんばるより、みんなで社会をよりよくした方が、みんなが悟りの境地にいきやすのではないの?という考えだと個人的には思っています。悟りを個人で開くのは、利己的とも言えるのですね。悟りとは認識であることから、環境を悟りの状態にしておけば、個人が悟らなくてもいいでしょ。ってことかな。でも、その根底にあるのは自分より、他人を利すること。利他の考えです。情けは人の為ならずということですね。

十戒とは 

ちなみに十戒というのもあるのだけれども、八斎戒に加えて、お金にふれていはいけない(宝石なども含み、持ってはいけない)、音楽や歌、踊りなどを鑑賞してはいけないというのが加わります。まあ、無理ですよね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました